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「酉」vol.5 勇気を持って、光明に満ちた未来へ

2017.3.21  干支コラム 

酉の字は「日読みのとり」と称され、暦に関係した場合にのみ「とり」と訓みます。もともとは「酒」の古字で、口の細い酒壷を描いた象形文字。時節では十月(旧暦八月)を指しますが、その理由として『説文解字』には「八月、黍(きび)成る。酎酒を為るべし」とあり、穀物が成熟し、酒を造る月で あるからと考えられます。
 一方、『新漢語林』によれば鶏(ケイ)の字は、その鳴き声から「鳥」に音符の「奚(ケイ)」を合わせた形声文字。奚は「つなぐ」の意味があり、家畜としてつながれた鳥を表します。わが国では鳴き声から「かけ」とか「かけろ」と呼ばれ、庭で飼われる ことから「庭つ鳥」ともいいました。「にわとり」は この「庭つ鳥」の意味です。
 古来より、鶏は時を告げる貴重な存在として、人のごく身近で飼われてきました。大空を飛ぶ代わりに、太陽の象徴として世界を暁に導き、吉凶を予知する役目を担い、またその闘争心から勇気ある鳥として讃えられました。
 世界規模でテロリズムの嵐が吹き荒れ、国内にあっては高齢化と人口減少が国の土台を揺るがしかねない厳しい時代だからこそ、「文・武・勇・仁・信」の鶏の五徳に習い、吉凶を見通すその眼力にあやかって、熟した穀物から新しく香り高い酒を造るように、この一年を光明に満ちた未来へとつながる契 機の年としたいものです。
(vol.1~vol.5文/坂上雅子)

「酉」vol.4 酉年の運勢やいかに

2017.3.21  干支コラム 

闘争心の強い鶏の性質を酉年生まれの人は、夢にあふれ、正義感が強く、頭の回転が早くて世渡りも上手、と魅力満点です。その反面、目立ちたがりで虚栄心が強く、短気なところがあるので注意が肝要とされます。
 戦後の歴史を振り返ると、酉年は良きにつけ悪しきにつけ、女性が話題を提供した年でした。
 1945年(昭和20)は「戦争未亡人」という残酷な言葉が生まれましたが、1957年(昭和32)は一転して有吉佐和子・原田康子・瀬戸内晴美ら才能ある女性新人作家がデビューし、「才女時代」といわれました。小川ローザが白いスカートを翻す「OH!モーレツ!」のテレビCMが大ヒットした1969年(昭和44)、田中角栄の秘書官の元妻・榎本三恵子の「ハチの一刺し」が流行語となった1981年(昭和56)。そして、平成の酉年の1993年(平成5)は皇太子様・雅子様のご成婚が話題をさらい、2005年(平成17)は当時の小池百合子環境大臣の主導により夏場の「クールビズ」 がスタートしました。

「酉」vol.3 闘鶏に興じ、勝負の吉凶を占う

2017.3.21  干支コラム 

 闘争心の強い鶏の性質を利用した闘鶏はギリシャに始まるといわれ、古代ギリシャの哲学者プラトンの著書『法律』にも、闘鶏に熱中する人々の姿が描かれています。
 日本では、『日本書紀』の雄略天皇紀に雄鶏を闘わせた記事が見えます。平安 時代に入ると鶏合(とりあわせ)と呼ばれて宮廷貴族の間で大流行し、鎌倉・室 町時代には朝廷・幕府における上巳の節句の恒例行事として楽しまれるようになりました。また、『年中行事絵巻』や『鳥獣戯画』には庶民が闘鶏に興じる姿も見られることから、貴族・武士・庶民を問わず広く親しまれていたことがわかります。
 このような娯楽的な側面の一方で、闘鶏は吉凶を予知する占いにも用いられま した。『平家物語』では、源氏と平氏の双方から援軍を要請された紀伊国の熊野別当・湛増(たんぞう)が、いずれに就くかを決めるために闘鶏を行います。赤の鶏を平氏、白の鶏を源氏に見立てて闘わせたところ、赤が逃げ出したことから、湛増は二百隻余の熊野水軍を率いて壇ノ浦に出陣し、源氏に加勢したのでした。

「酉」vol.2 独自の発達をとげた日本鶏

2017.3.21  干支コラム 

 野鳥を飼いならして品種改良したものを家禽といいますが、そのなかで最も広く飼育されているのが鶏です。
 鶏の祖先は、東南アジアから南アジア一帯に分布しているセキショクヤケイ等の野鶏と考えられていますが、その起源や家禽化の時期については諸説あり、定かではありません。
 日本には稲作と前後して、今日の地鶏の祖先が渡来したと考えられています。その後、平安時代に遣唐使船によって今日の小国鶏の祖先が中国からもたらさ れ、江戸時代初頭には朱印船により、タイ・ベトナム・中国から大シャモ・チャボ・ウコッケイの祖先がもたらされました。江戸時代にこれらが交配され、品種改良されたのが「日本鶏(にほんけい)」 です。
 諸外国の品種が主に卵・肉を採取するために改良されたのに対して、日本鶏は世界的に極めて珍しいことに、主に観賞用として品種改良されました。日本三大長鳴鶏といわれ、時を告げる声を観賞する高知原産のトウテンコウ、青森原産のコエヨシドリ、新潟原産のトウマル。もとは闘鶏に用いられたシャモやサツマドリ、カワチヤッコ。雄の尾羽が十二メートルにも達する土佐のオナガドリをはじめ、姿を観賞するために作られたミノヒキ、クロカシワ、ヒナイドリなど。日本各地で作られた十五品種の鶏が、国の天然記念物に指定されています。

「酉」vol.1 太陽を飛び戻す「五徳」の鳥

2017.3.21  干支コラム 

 人が理想とする「文・武・勇・仁・信」の五つの徳。中国では、鶏はこの五徳を備える鳥といわれます。
 出典は前漢の韓嬰(かんえい)が著した『韓詩外伝』。すなわち、頭に文官の冠をいただき(文)、足に蹴爪を持ち(武)、ひとたび戦えば敵前から一歩も引かず(勇)、餌を見つければ「コッコッ」と鳴いて仲間に知らせ(仁)、時間を正確に守って夜明けを告げる(信)。そんな鶏の姿や性質を五徳と讃えたのです。
 日本では『古事記』や『日本書紀』の天岩戸伝説に、「常世の長鳴鳥」という名で鶏が登場します。天照大神が天の岩戸に隠れ、世界が闇に閉ざされたとき、神々が常世の長鵈鳥を集めて鳴かせ、アメノウズメノミコトに舞い踊らせて太陽神の天照大神を誘い出すことに成功します。
 鶏が太陽を呼び戻す神話は中国にも見られ、古代エジプトや古代ペルシャ、さらに中世ヨーロッパにおいても、鶏は太陽の象徴とされました。十六世紀のイギリスの劇作家シェイクスピアは、『ハムレット』の冒頭部分に次のように書いています。
 「聞くところによれば、夜明けを告げる喇叭(らっぱ)手の雄鶏は、その張り上げた甲高い鳴き声で日の神を目覚めさせ、そして鶏鳴の警告を聞くや、海のなか、火のなか、地下、空中いずれであれ、無明をさまよう霊たちは、それぞれに定められたおのが領分へと急ぎ戻るという」(岩波書店野島秀勝訳)
 洋の東西を問わず、その鳴き声で夜明けを告げる鶏は、悪霊が闊歩する暗黒の世界を太陽の光のもとへと導く霊鳥と信じられていたのでした。

「申」vol.5 背筋を伸ばし、活気に満ちて

2016.1.27  干支コラム 

『新漢語林』によれば、「申」の字は稲光の走るさまをかたどった象形文字で、「伸びる」「神」の意味を表すとあります。
 このほかにも、「申」は背骨と肋骨をかたどったもので、まっすぐに伸びてしっかり体を支えるという意昧を持つとする説もあります。
 数多くの民話や伝説に登場する猿のなかにあって、16世紀中国・明代の『西遊記』から現代日本の『ドラゴンボール』まで、時代を超えて縦横無尽の活躍を続ける孫悟空は、もっとも人気のあるスーパースターといえるでしょう。
 稲光のように、キン斗雲に乗って10万8千里をひとっ跳び。機敏で活気に満ち溢れた孫悟空にあやかり、背筋をまっすぐに伸ばし、何事にも前進あるのみの有意義な一年としたいものです。
(vol.1~vol.5文/坂上雅子)

「申」vol.4 申年の運勢やいかに

2016.1.19  干支コラム 

 申年の人は、利発な素質を持ち、発想が豊かで進取の精神に富むとされます。そのため、若くして世に認められる人が多いとか。
 25歳で『若菜集』を刊行し、詩人として名声を博した島崎藤村。『たけくらべ』『にごりえ』などの名作を残し、24歳で夭折した樋口一葉。現在もその作品が多くの人々に読み継がれている太宰治や宮沢賢治、一橋大学在学中に『太陽の季節』で芥川賞を受賞した石原慎太郎など。申年生まれには著名な作家が多いのが特徴です。
 東京・兜町の格言にいわく、「辰・巳天井、午尻下がり、未辛抱」。そして「申・酉騒ぐ」と続きます。その格言通りに、戦後の歴史を見ると、申年は経済の浮き沈みが大きい年といえるでしょう。1956年(昭和31)は神武景気が本格化、経済白書に「もはや戦後ではない」と記されました。1968年(昭和43)はイザナギ景気に沸き、テレビCMの「大きいことはいいことだ」という言葉が流行しました。しかし、1992年(平成4)は一転して平成バブル不況。「複合不況」や「資産デフレ」という言葉が流行語となりました。
 猿は、「悪いものが去る」に通じることから、古来よりたいへん縁起の良い動物とされています。その猿の力にあやかり、2016年(平成28)は長引くデフレ不況が去り、善男善女が明るい希望を持って元気にくらせる年となるよう祈りたいものです。

「申」vol.3 三猿があらわす人の叡智

2016.1.14  干支コラム 

 3匹の猿が両手でそれぞれ目、耳、口を隠し、「見ざる、聞かざる、言わざる」の意を表すとされる三猿。
 その起源は、『論語』のなかの「礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ」という教えに基づくという説。また、「耳は人の非を聞かず、目は人の非を見ず、口は人の過を言わず」という天台宗の教えに基づくものという説もあります。
 いずれにしても中国から日本に伝わり、日本語の語呂合わせの「猿」がくっついたのが、「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿。ならば、発祥の地は日本かと思いきや、驚くことに三猿のモチーフは、世界中のいたる所で見られるというのです。
 飯田道夫氏の『世界の三猿-その源流をたずねて』(人文書院)によると、インドやネパール、インカの遺跡、イスタンブールからアフリカまで足を延ばした探求の結果、三猿崇拝・三猿習俗のルーツは古代エジプトにあり、と結論付けています。さらに驚くべきことに、国立民族学博物館のコレクションを紹介した中牧弘允教授の『世界の三猿―見ざる、聞かざる、言わざる』(東方出版)では、中国・韓国・フィリピン・シンガポール・インドネシア・タイ・インド・ネパール・スリランカといったアジア諸国のみならず、アメリカやカナダ、ヨーロッパの国々、北欧、中・南米やアフリカ、オーストラリアなど、三猿は世界の隅々まで広がっています。
 3匹の猿に託した「見ざる、聞かざる、言わざる」は、もしかしたら民族や文化を超えて共有できる人類の叡智といえるのかもしれません。

「申」vol.2 信仰から伝統芸能へ

2016.1.5  干支コラム 

 現代では動物園や特定の生息地以外で猿を目にすることはめったにありませんが、わが国では太古の昔からきわめて身近な生き物でした。
 比叡山麓に鎮座する山王権現・日吉大社の神使いが猿であることから、古来より猿は山の神とされてきました。また「猿は山の父、馬は山の子」ともいわれ、猿は馬の守り神であると信じられていました。有名な日光東照宮の三猿が、ご神馬をつなぐ厩(うまや)に彫刻されているのもそのためです。
 鎌倉時代の説話集『古今著聞集』には、直垂・小袴・島帽子をつけた猿が太鼓に合わせて舞を演じ、その後に厩の前につないだという記述があります。猿まわしという芸能は、どうやら古くは大切な財産である馬の安全息災を祈る厩の祈祷に用いられていたようです。
 江戸時代になると、各地に猿飼が住む猿屋町や猿屋垣内が置かれ、そこを拠点に組織化された猿まわしの集団が諸国を巡っていました。その頃には、新春の祝福芸としても盛んになります。猿飼が祝言を述べ、猿がめでたい舞を披露する姿は、宮中や武家屋敷はもとより、庶民の間でも正月の風物詩となり、俳旬の季語ともなっています。
 明治以降、古典的な猿まわしはすたれ、一時は“幻の芸能”ともいわれましたが、山口県周防地方でその伝統が保存されてきました。1991年(平成3)には、周防猿まわしが動物芸として初の芸術祭賞を受賞。人とニホンザルが一体となって織りなす猿まわしが優れた芸能であることが、広く認められました。

「申」vol.1 動物の首長たる霊長類

2015.12.16  干支コラム 

 猿の語源は、一説には、他の動物よりはるかに知能が勝ることから「まさる」の「ま」が省略されて「さる」になったとされます。また一説には、人の物真似をしてふざけることから「戯(ざ)る」に由来するとされます。いずれも、ヒトと共に霊長類に分類される猿の特性をよく表したものといえるでしょう。
 霊長類の仲間である猿の進化は、ヒトの起源とも密接な関わりを持っています。ヒトや類人猿の遺伝的な研究では、テナガザル→オランウータン→ゴリラの順に分岐し、今から約700万年前、最後にチンパンジーとヒトが分かれたと考えられているそうです。
 日本に生息する猿は、動物学上は霊長目オナガザル科の一種で、その名もニホンザルといいます。南は鹿児島県屋久島から北限は青森県下北半島に至る間に分布し、冬ともなると雪の舞うなか、心地よさげに目を細めて温泉につかる姿がテレビなどでよく紹介されます。
 しかし、世界的に見ると、これはきわめて珍しい光景です。他の猿たちは、中南米、アフリカ、南アジアから東アジアにかけての熱帯、亜熱帯地域に分布するのに対し、ニホンザルはヒト以外で雪が降る地域に棲む最北限の霊長類として、海外ではスノーモンキーと呼ばれ注目されています。