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「未」vol.5 未来を見つめ、大樹を育まん

2015.1.27  干支コラム 

 平安時代の末から鎌倉時代初頭にかけて、貴族社会から武家社会へと大きく変貌を遂げた時代を生きた僧侶・慈円は、次のような歌を詠んでいます。

 極楽へまだわが心行きつかず
 羊のあゆみしばしとどまれ

 羊が屠所(としよ)へとひかれ黙々と歩むように、人もまた死に向かって日々を生きています。たとえわが魂がいまだ極楽へ往生するまでに至っていなくても、刻々と死に近づいていく羊の歩みは、決してとどまることはありません。 「未」の文字は、木の枝がまだ伸びきらない状態をかたどった象形文字で、「いまだ…していない」の意を表します。いまだ知らぬこと、まだ来ていない時代、まだ熟していないこと、まだ完成していないもの—「未知」や「未来」、「未熟」や「未完」の物事を、この先良くするのも悪くするのも、この一年の、今この時が勝負です。
 いまだ伸びきっていない木をやがて大きく枝を広げる大樹とするために、羊のごとく穏やかに、されど内には熱い闘志をたぎらせつつ、一歩また一歩と着実に歩み続けたいものです。
(vol.1~vol.5文/坂上雅子)

「未」vol.4 去年の運勢やいかに

2015.1.19  干支コラム 

 十二支の本場の中国では、明るく活動的な午年と打って変わって、未年は静かで平穏な一年になると考えられているようです。
 また、未年は十二支の中で最も思いやりのある干支と伝えられます。未年の人は穏健で同情心に富み、感性が豊かで芸術感覚に優れているとされます。しかし、性質がおとなしい分、内気でセンチメンタルなところがあり、物事がうまくいかないと悲観的になりがちで、落ち込みやすいのが欠点とされます。
 ところが、最近の未年生まれを見ると、意外なことに、闘争心が要求されるプロスポーツ界で活躍するスター選手が多いのが特徴です。プロボクサーのファイティング原田・輪島功一・具志堅用高・亀田和毅、格闘技の魔裟斗(まさと)、大相撲の千代の富士、プロ野球の江川卓・清原和博・阿部慎之助、サッカーの三浦友良・中山雅史・小野伸二など。
 自らの弱気を克服し、闘志を持って事にあたれば、人々に愛され吉運が開けるようです。

「未」vol.3 農耕の民、遊牧の民

2015.1.14  干支コラム 

 古来より日本には、さまざまなものが海を越えて伝わりましたが、羊については骨の出土などもなく、ほとんど伝わらなかったと見られています。
 『日本書紀』には、推古天皇7年(599年)に百済国からラクダなどとともに羊が献上されたと記されています。さらに、嵯峨天皇の治世の弘仁11年(935年)には新羅から、朱雀天皇の治世の承平5年(935年)には中国からもたらされたとの記録も残りますが、どうやら珍獣としての扱いで、その後もずっと食用や羊毛用としての羊の飼育が普及することはありませんでした。
 日本でもっとも多くの羊が飼育されることになるのは、太平洋戦争後の1950年代。食糧不足と衣料不足が農家の飼育熱をあおり、一時は100万頭を超えたこともあったようです。しかし、その多くは、農家の軒先の小屋で少数の羊が飼われるという副業的なものでした。
 1973年、少年の頃から憧れ続けた悠久の地・モンゴル高原を訪れた作家の司馬遼太郎は、遊牧民族と農耕民族の違いを次のように書き記しています。
 遊牧と農耕は同じく大地に依存しつつも、遊牧者は草の生えっぱなしの大地を生存の絶対条件とし、農耕者は逆に草をきらい、その草地を鋤でひっくりかえして田畑にすることを絶対条件としている。(モンゴル紀行より)
 もともと高温多湿で樹木が多く、草地が少ない日本の気候風土は、広大な草原で何百頭もの羊の大群を放牧飼育するには適しません。ましてや、元来農耕民族である日本人には、羊の群れを追いながら大草原を移動するような遊牧の民の暮らしは想像もできなかったことでしょう。やがて経済が回復し、国外から安価な羊毛が輸入されるようになると、急速にその数は減少し、現在では北海道を中心にわずかな数が飼育されるにとどまっています。

「未」vol.2 世界を養う最高のご馳走

2015.1.5  干支コラム 

 羊が家畜化されたのは古く、一説では中石器時代の中央アジアにはじまるといわれます。以来、サバンナ地帯やステップ草原、地中海地域やヨーロッパ、砂漠の周縁部など、世界各地で放牧飼育されてきました。
 『新漢語林』によれば、“羊”と“食”を組み合わせた「養」の字義は「羊を食器に盛る・供えるの意味から、やしなう」とあり、“羊”と“大”を組み合わせた「美」の字義は「大きくて立派な羊の意味から、うまい、美しい」とあります。古代中国において、天子が土地の神、五穀の神を祀るときには、特別の供物として牛・羊・豚が捧げられました。この三種の供物を大牢(たいろう)といい、転じて最高のご馳走という意味でも使われます。中でも羊は、「祥」の字が示すように、神に供えて吉凶のきざしを占う際に用いられる重要な家畜でした。
 同じように、ユダヤ・キリスト教世界やイスラム世界においても、羊は美味なご馳走であり、神々に供えることのできる神聖な家畜でした。
 『創世記』22章では、アブラハムが神への誠心を示すために、愛児イサクを生贄として捧げようとします。祭壇を築いてその上にイサクを縛り、まさに殺そうとしたそのときに、神が用意した身代わりの生贄が1頭の雄羊でした。
 イスラム法が定める神への最善の供物は、生後1年以上を経た健康な雄羊です。そのため、メッカ巡礼や祈願成就の折りには好んで羊が捧げられ、巡礼月に行われるイスラムの二大祭のひとつ犠牲祭では捧げた羊を3等分し、家族・貧困親族・貧困家庭に配分することが善行とされています。
 肉や乳は美味なる食糧となり、毛は温かい繊維となり、柔らかい皮は古くは紙の代わりとなり、糞は貴重な燃料ともなるこの穏やかな草食動物は、数千年もの昔から世界中で多くの人々を養い、人々の信仰を支えてもきたのです。

「未」vol.1 未は「祥」なり

2014.12.16  干支コラム 

中国に伝わる吉祥図に、3頭の羊が陽光を浴びている図柄があります。春節(中国の旧正月)の祝詞によく用いられたという縁起の良い言葉、「三陽開泰(さんようかいたい)」を描いたものです。
 古く中国では、冬至の日を境として陰の気が次第に去り、陽の気がだんだんに生じると考えられていました。旧暦11月の冬至の日に「一陽」が生じ、旧暦12月に「二陽」が生じ、正月に「三陽」が生じて「開泰する(万物が通じる)」というのです。そこから、冬が過ぎ、春が巡り来て、万物が生気に満ち溢れるという意味のおめでたい言葉として使われ、吉祥図にも描かれました。
 羊の図案が用いられたのは、「陽」と「羊」の字音が同じであるのに加え、後漢の許慎(きょしん)が撰した最古の漢字辞典『説文解字』に「羊は祥なり」とあるように、そもそも羊は祥に通じる縁起の良い存在でもあったからでしょう。
 羊は、角を持ってはいても使わないところが、仁を好む人のようである。捕えても鳴かず、殺しても声を上げないのは、義に殉じる人のようである。子羊が母から乳をもらうときに必ずひざまずくのは、まるで礼を知る人のようである。羊が祥とほぼ同義とされるゆえんはここにある。(要約)
 中国・前漢の書物『春秋繁露(しゅんじゅうばんろ)』の中で、羊はこのように説明されています。

「午」vol.5 天馬のごとくのびやかに

2014.1.31  干支コラム 

 午年生まれの人は、せっかちで怒りっぽいところがありますが、根っから陽気な性格で、頭の回転が速い人が多いのが特徴です。独立心に富み、失敗してもくよくよ思い悩むことなく心機一転できることから、地道に努力すれば予想もしなかったような成功が得られるといわれます。
 明治3年、ロシア革命の指導者レーニン。明治15年、アメリカ合衆国第32代大統領ルーズベルト。わが国では、明治27年に松下幸之助、明治39年に本田宗一郎、大正7年に田中角栄、昭和17年に小泉純一郎など。午年生まれは、各世代に歴史に名を残す政財界の大物が顔を揃えています。
 史実をひもとけば、大化の改新、本能寺の変、赤穂浪士の討ち入り、日露戦争など。午の年には歴史を動かす出来事が頻繁に起きています。そもそも「午」という字は、杵の形を描いた象形文字で物事が「交差する」という意味があります。また午は「さからう」の意味を持ち、午の上の「」は地表を表し、下の横棒は陽気、縦棒は陰気が下から突き上げて地表に出ようとするさまを表します。そこから、相反する二つの勢力の間に衝突が起こり、運命が一変する可能性をはらんだ年と考えられるのです。
 「天馬空行」という故事があります。大空を自由に駆けまわる天馬にたとえて、ものの考え方や行動がのびやかで勢いがあることを指します。時代が大きく動く午年ならばこそ、恐れずひるまず「天馬空を行く」の気概を持って、日に千里を走る駿馬のように、新しいこの一年を力強く駆けめぐりたいものです。
(vol.1~vol.5文/坂上雅子)

「午」vol.4 左馬が福を招く

2014.1.25  干支コラム 

その絵馬の絵柄に、左(向かって右)を向いて左足を出した「左馬」がよく描かれます。一説によれば、左癖の馬は出足が良いといわれ、足が速くてすぐに売れるということから、商売繁盛の御利益があるとされます。
 また、馬は右から乗ると転ぶ習性があるため、必ず左側から乗ることからきているという説もあります。転ばない左馬にあやかって、人生を無事に大過なく過ごしたいという庶民の素朴な祈りが込められているのです。
 天童市の将棋駒で知られるように、馬の字を左右逆さに書いた左馬もあります。「うま」を逆さに読んだ「まう」が祝宴で踊られる「舞い」に通じることから、福を招く御利益があるとされます。

「午」vol.3 馬は神と人をつなぐ

2014.1.17  干支コラム 

洋の東西を問わず、馬は神霊の乗りものであると考えられていました。ギリシャやインドにあっては、太陽神が乗る車を引く聖獣とされ、中国ではインドからの高僧が白馬に経典を乗せて当地に仏教を伝えたといわれます。また、黄河から八卦図を背に現れ出たという、竜馬伝説も残ります。
 わが国では、神事や祈願に神の降臨を求めて生きた馬を奉納するならわしがあり、平安時代の書物『延喜式』によれば、雨乞いの祈願には黒毛の馬を、止雨の祈願には白馬を奉ったとあります。
 とはいえ、生きた馬を奉納するというのは、そうそうできることではありません。そこで、神馬を描いた板絵を納めたのが「絵馬」の起源といわれます。時代とともに絵馬は多様化し、桃山時代には著名な絵師が筆をふるった豪華な大型絵馬が人気となり、それをかけるための絵馬堂がつくられました。その一方で、名もない市井の絵馬師や奉納者自身が描いた小絵馬は、庶民の間で脈々と受け継がれ、現代も祈願や報謝のために奉納する善男善女が絶えることがありません。

「午」vol.2 名馬は歴史を変える

2014.1.6  干支コラム 

 縄文時代の遺跡から馬の歯が出土していることからもわかるように、馬はかなり早い時期にわが国に渡来し、古墳時代の後期には貴人の間で騎乗の風習が広まっていたと考えられます。
 672年、大友皇子と大海人(おおあま)皇子の皇位継承争いに端を発した壬申の乱では、両軍による騎馬戦が華々しく展開され、馬による行軍のスピードが戦局を左右します。勝利を得た大海人皇子は翌673年、飛鳥京にて即位し天武天皇となりますが、この戦いで大友皇子側についた大和朝廷の大豪族たちが打撃を受け、天皇の権力が強化されたことが、日本を中央集権国家へと大きく転換させる契機となりました。
 「将を射んと欲すればまず馬を射よ」の言葉が示すように、古代より馬は武将と一体となって戦陣を疾駆し、時としてその勝敗さえ分かつ働きをしてきました。 源義経によるひよどり越の奇襲、武将を乗せた馬が筏のように宇治川の急流を押し渡る橘合戦など。源平の戦いを描いた『平家物語』には、馬が活躍する場面が数多く見られます。それもそのはずで、朝廷が軍馬の育成にあたらせた牧地を治めていた者たちが、やがて武士となり勢力を広げ、その頂点に立ったのが源氏でした。源氏軍は得意とする騎馬の機動力を最大限に発揮し、戦を制したのです。

「午」vol.1 伯楽は名馬を見抜く

2013.12.24  干支コラム 

 野球のイチロー選手を見出した仰木監督のように、埋もれた才能を見抜く眼力のある人物のことを「名伯楽」と呼びます。
 この伯楽とは、古代中国の有名な名馬の鑑定人のことです。本名を孫陽、号を伯楽といいました。
 古書『戦国策』燕策には、こんな話が見られます。
 ある人が駿馬を市に出したがなかなか売れず、伯楽に頼んで一度顧みてもらうと、とたんに馬の値が十倍にはね上がったという。
 この故事の駿馬と伯楽の関係を、人間界に見たのが「伯楽一顧」です。世に埋もれていた優れた人材が、名君や賢相によって才能を認められ重用されることをいいます。名君・賢相のたとえとして使われるほどですから、伯楽の権威は広く認められていたのでしょう。
 中国で現代も使われている言葉に、「馬到成功」があります。軍馬が到着するなり戦を制するという意味から、速やかに勝利を収めることをあらわします。古代から近代に至るまで、馬は人々の生活や国の発展に欠かせない輸送と交通を担いながら、同時に人と生死を共にする特別な存在でもありました。
 干支の十二支獣のうち、馬ほど人間の歴史や国家の興亡に深く関わった動物はありません。名馬を見抜く力を持った伯楽が、名君・賢相に並び称され、その名を今に残しているのも、人にとっての馬の存在の大きさを物語っているのかもしれません。