コラム

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2016年01月の投稿Date

「申」vol.5 背筋を伸ばし、活気に満ちて

2016.1.27  干支コラム 

『新漢語林』によれば、「申」の字は稲光の走るさまをかたどった象形文字で、「伸びる」「神」の意味を表すとあります。
 このほかにも、「申」は背骨と肋骨をかたどったもので、まっすぐに伸びてしっかり体を支えるという意昧を持つとする説もあります。
 数多くの民話や伝説に登場する猿のなかにあって、16世紀中国・明代の『西遊記』から現代日本の『ドラゴンボール』まで、時代を超えて縦横無尽の活躍を続ける孫悟空は、もっとも人気のあるスーパースターといえるでしょう。
 稲光のように、キン斗雲に乗って10万8千里をひとっ跳び。機敏で活気に満ち溢れた孫悟空にあやかり、背筋をまっすぐに伸ばし、何事にも前進あるのみの有意義な一年としたいものです。
(vol.1~vol.5文/坂上雅子)

「申」vol.4 申年の運勢やいかに

2016.1.19  干支コラム 

 申年の人は、利発な素質を持ち、発想が豊かで進取の精神に富むとされます。そのため、若くして世に認められる人が多いとか。
 25歳で『若菜集』を刊行し、詩人として名声を博した島崎藤村。『たけくらべ』『にごりえ』などの名作を残し、24歳で夭折した樋口一葉。現在もその作品が多くの人々に読み継がれている太宰治や宮沢賢治、一橋大学在学中に『太陽の季節』で芥川賞を受賞した石原慎太郎など。申年生まれには著名な作家が多いのが特徴です。
 東京・兜町の格言にいわく、「辰・巳天井、午尻下がり、未辛抱」。そして「申・酉騒ぐ」と続きます。その格言通りに、戦後の歴史を見ると、申年は経済の浮き沈みが大きい年といえるでしょう。1956年(昭和31)は神武景気が本格化、経済白書に「もはや戦後ではない」と記されました。1968年(昭和43)はイザナギ景気に沸き、テレビCMの「大きいことはいいことだ」という言葉が流行しました。しかし、1992年(平成4)は一転して平成バブル不況。「複合不況」や「資産デフレ」という言葉が流行語となりました。
 猿は、「悪いものが去る」に通じることから、古来よりたいへん縁起の良い動物とされています。その猿の力にあやかり、2016年(平成28)は長引くデフレ不況が去り、善男善女が明るい希望を持って元気にくらせる年となるよう祈りたいものです。

「申」vol.3 三猿があらわす人の叡智

2016.1.14  干支コラム 

 3匹の猿が両手でそれぞれ目、耳、口を隠し、「見ざる、聞かざる、言わざる」の意を表すとされる三猿。
 その起源は、『論語』のなかの「礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ」という教えに基づくという説。また、「耳は人の非を聞かず、目は人の非を見ず、口は人の過を言わず」という天台宗の教えに基づくものという説もあります。
 いずれにしても中国から日本に伝わり、日本語の語呂合わせの「猿」がくっついたのが、「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿。ならば、発祥の地は日本かと思いきや、驚くことに三猿のモチーフは、世界中のいたる所で見られるというのです。
 飯田道夫氏の『世界の三猿-その源流をたずねて』(人文書院)によると、インドやネパール、インカの遺跡、イスタンブールからアフリカまで足を延ばした探求の結果、三猿崇拝・三猿習俗のルーツは古代エジプトにあり、と結論付けています。さらに驚くべきことに、国立民族学博物館のコレクションを紹介した中牧弘允教授の『世界の三猿―見ざる、聞かざる、言わざる』(東方出版)では、中国・韓国・フィリピン・シンガポール・インドネシア・タイ・インド・ネパール・スリランカといったアジア諸国のみならず、アメリカやカナダ、ヨーロッパの国々、北欧、中・南米やアフリカ、オーストラリアなど、三猿は世界の隅々まで広がっています。
 3匹の猿に託した「見ざる、聞かざる、言わざる」は、もしかしたら民族や文化を超えて共有できる人類の叡智といえるのかもしれません。

「申」vol.2 信仰から伝統芸能へ

2016.1.5  干支コラム 

 現代では動物園や特定の生息地以外で猿を目にすることはめったにありませんが、わが国では太古の昔からきわめて身近な生き物でした。
 比叡山麓に鎮座する山王権現・日吉大社の神使いが猿であることから、古来より猿は山の神とされてきました。また「猿は山の父、馬は山の子」ともいわれ、猿は馬の守り神であると信じられていました。有名な日光東照宮の三猿が、ご神馬をつなぐ厩(うまや)に彫刻されているのもそのためです。
 鎌倉時代の説話集『古今著聞集』には、直垂・小袴・島帽子をつけた猿が太鼓に合わせて舞を演じ、その後に厩の前につないだという記述があります。猿まわしという芸能は、どうやら古くは大切な財産である馬の安全息災を祈る厩の祈祷に用いられていたようです。
 江戸時代になると、各地に猿飼が住む猿屋町や猿屋垣内が置かれ、そこを拠点に組織化された猿まわしの集団が諸国を巡っていました。その頃には、新春の祝福芸としても盛んになります。猿飼が祝言を述べ、猿がめでたい舞を披露する姿は、宮中や武家屋敷はもとより、庶民の間でも正月の風物詩となり、俳旬の季語ともなっています。
 明治以降、古典的な猿まわしはすたれ、一時は“幻の芸能”ともいわれましたが、山口県周防地方でその伝統が保存されてきました。1991年(平成3)には、周防猿まわしが動物芸として初の芸術祭賞を受賞。人とニホンザルが一体となって織りなす猿まわしが優れた芸能であることが、広く認められました。