コラム

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「申」vol.3 三猿があらわす人の叡智

2016.1.14  干支コラム 

 3匹の猿が両手でそれぞれ目、耳、口を隠し、「見ざる、聞かざる、言わざる」の意を表すとされる三猿。
 その起源は、『論語』のなかの「礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ」という教えに基づくという説。また、「耳は人の非を聞かず、目は人の非を見ず、口は人の過を言わず」という天台宗の教えに基づくものという説もあります。
 いずれにしても中国から日本に伝わり、日本語の語呂合わせの「猿」がくっついたのが、「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿。ならば、発祥の地は日本かと思いきや、驚くことに三猿のモチーフは、世界中のいたる所で見られるというのです。
 飯田道夫氏の『世界の三猿-その源流をたずねて』(人文書院)によると、インドやネパール、インカの遺跡、イスタンブールからアフリカまで足を延ばした探求の結果、三猿崇拝・三猿習俗のルーツは古代エジプトにあり、と結論付けています。さらに驚くべきことに、国立民族学博物館のコレクションを紹介した中牧弘允教授の『世界の三猿―見ざる、聞かざる、言わざる』(東方出版)では、中国・韓国・フィリピン・シンガポール・インドネシア・タイ・インド・ネパール・スリランカといったアジア諸国のみならず、アメリカやカナダ、ヨーロッパの国々、北欧、中・南米やアフリカ、オーストラリアなど、三猿は世界の隅々まで広がっています。
 3匹の猿に託した「見ざる、聞かざる、言わざる」は、もしかしたら民族や文化を超えて共有できる人類の叡智といえるのかもしれません。

「申」vol.2 信仰から伝統芸能へ

2016.1.5  干支コラム 

 現代では動物園や特定の生息地以外で猿を目にすることはめったにありませんが、わが国では太古の昔からきわめて身近な生き物でした。
 比叡山麓に鎮座する山王権現・日吉大社の神使いが猿であることから、古来より猿は山の神とされてきました。また「猿は山の父、馬は山の子」ともいわれ、猿は馬の守り神であると信じられていました。有名な日光東照宮の三猿が、ご神馬をつなぐ厩(うまや)に彫刻されているのもそのためです。
 鎌倉時代の説話集『古今著聞集』には、直垂・小袴・島帽子をつけた猿が太鼓に合わせて舞を演じ、その後に厩の前につないだという記述があります。猿まわしという芸能は、どうやら古くは大切な財産である馬の安全息災を祈る厩の祈祷に用いられていたようです。
 江戸時代になると、各地に猿飼が住む猿屋町や猿屋垣内が置かれ、そこを拠点に組織化された猿まわしの集団が諸国を巡っていました。その頃には、新春の祝福芸としても盛んになります。猿飼が祝言を述べ、猿がめでたい舞を披露する姿は、宮中や武家屋敷はもとより、庶民の間でも正月の風物詩となり、俳旬の季語ともなっています。
 明治以降、古典的な猿まわしはすたれ、一時は“幻の芸能”ともいわれましたが、山口県周防地方でその伝統が保存されてきました。1991年(平成3)には、周防猿まわしが動物芸として初の芸術祭賞を受賞。人とニホンザルが一体となって織りなす猿まわしが優れた芸能であることが、広く認められました。

「申」vol.1 動物の首長たる霊長類

2015.12.16  干支コラム 

 猿の語源は、一説には、他の動物よりはるかに知能が勝ることから「まさる」の「ま」が省略されて「さる」になったとされます。また一説には、人の物真似をしてふざけることから「戯(ざ)る」に由来するとされます。いずれも、ヒトと共に霊長類に分類される猿の特性をよく表したものといえるでしょう。
 霊長類の仲間である猿の進化は、ヒトの起源とも密接な関わりを持っています。ヒトや類人猿の遺伝的な研究では、テナガザル→オランウータン→ゴリラの順に分岐し、今から約700万年前、最後にチンパンジーとヒトが分かれたと考えられているそうです。
 日本に生息する猿は、動物学上は霊長目オナガザル科の一種で、その名もニホンザルといいます。南は鹿児島県屋久島から北限は青森県下北半島に至る間に分布し、冬ともなると雪の舞うなか、心地よさげに目を細めて温泉につかる姿がテレビなどでよく紹介されます。
 しかし、世界的に見ると、これはきわめて珍しい光景です。他の猿たちは、中南米、アフリカ、南アジアから東アジアにかけての熱帯、亜熱帯地域に分布するのに対し、ニホンザルはヒト以外で雪が降る地域に棲む最北限の霊長類として、海外ではスノーモンキーと呼ばれ注目されています。

「未」vol.5 未来を見つめ、大樹を育まん

2015.1.27  干支コラム 

 平安時代の末から鎌倉時代初頭にかけて、貴族社会から武家社会へと大きく変貌を遂げた時代を生きた僧侶・慈円は、次のような歌を詠んでいます。

 極楽へまだわが心行きつかず
 羊のあゆみしばしとどまれ

 羊が屠所(としよ)へとひかれ黙々と歩むように、人もまた死に向かって日々を生きています。たとえわが魂がいまだ極楽へ往生するまでに至っていなくても、刻々と死に近づいていく羊の歩みは、決してとどまることはありません。 「未」の文字は、木の枝がまだ伸びきらない状態をかたどった象形文字で、「いまだ…していない」の意を表します。いまだ知らぬこと、まだ来ていない時代、まだ熟していないこと、まだ完成していないもの—「未知」や「未来」、「未熟」や「未完」の物事を、この先良くするのも悪くするのも、この一年の、今この時が勝負です。
 いまだ伸びきっていない木をやがて大きく枝を広げる大樹とするために、羊のごとく穏やかに、されど内には熱い闘志をたぎらせつつ、一歩また一歩と着実に歩み続けたいものです。
(vol.1~vol.5文/坂上雅子)

「未」vol.4 去年の運勢やいかに

2015.1.19  干支コラム 

 十二支の本場の中国では、明るく活動的な午年と打って変わって、未年は静かで平穏な一年になると考えられているようです。
 また、未年は十二支の中で最も思いやりのある干支と伝えられます。未年の人は穏健で同情心に富み、感性が豊かで芸術感覚に優れているとされます。しかし、性質がおとなしい分、内気でセンチメンタルなところがあり、物事がうまくいかないと悲観的になりがちで、落ち込みやすいのが欠点とされます。
 ところが、最近の未年生まれを見ると、意外なことに、闘争心が要求されるプロスポーツ界で活躍するスター選手が多いのが特徴です。プロボクサーのファイティング原田・輪島功一・具志堅用高・亀田和毅、格闘技の魔裟斗(まさと)、大相撲の千代の富士、プロ野球の江川卓・清原和博・阿部慎之助、サッカーの三浦友良・中山雅史・小野伸二など。
 自らの弱気を克服し、闘志を持って事にあたれば、人々に愛され吉運が開けるようです。

「未」vol.3 農耕の民、遊牧の民

2015.1.14  干支コラム 

 古来より日本には、さまざまなものが海を越えて伝わりましたが、羊については骨の出土などもなく、ほとんど伝わらなかったと見られています。
 『日本書紀』には、推古天皇7年(599年)に百済国からラクダなどとともに羊が献上されたと記されています。さらに、嵯峨天皇の治世の弘仁11年(935年)には新羅から、朱雀天皇の治世の承平5年(935年)には中国からもたらされたとの記録も残りますが、どうやら珍獣としての扱いで、その後もずっと食用や羊毛用としての羊の飼育が普及することはありませんでした。
 日本でもっとも多くの羊が飼育されることになるのは、太平洋戦争後の1950年代。食糧不足と衣料不足が農家の飼育熱をあおり、一時は100万頭を超えたこともあったようです。しかし、その多くは、農家の軒先の小屋で少数の羊が飼われるという副業的なものでした。
 1973年、少年の頃から憧れ続けた悠久の地・モンゴル高原を訪れた作家の司馬遼太郎は、遊牧民族と農耕民族の違いを次のように書き記しています。
 遊牧と農耕は同じく大地に依存しつつも、遊牧者は草の生えっぱなしの大地を生存の絶対条件とし、農耕者は逆に草をきらい、その草地を鋤でひっくりかえして田畑にすることを絶対条件としている。(モンゴル紀行より)
 もともと高温多湿で樹木が多く、草地が少ない日本の気候風土は、広大な草原で何百頭もの羊の大群を放牧飼育するには適しません。ましてや、元来農耕民族である日本人には、羊の群れを追いながら大草原を移動するような遊牧の民の暮らしは想像もできなかったことでしょう。やがて経済が回復し、国外から安価な羊毛が輸入されるようになると、急速にその数は減少し、現在では北海道を中心にわずかな数が飼育されるにとどまっています。

「未」vol.2 世界を養う最高のご馳走

2015.1.5  干支コラム 

 羊が家畜化されたのは古く、一説では中石器時代の中央アジアにはじまるといわれます。以来、サバンナ地帯やステップ草原、地中海地域やヨーロッパ、砂漠の周縁部など、世界各地で放牧飼育されてきました。
 『新漢語林』によれば、“羊”と“食”を組み合わせた「養」の字義は「羊を食器に盛る・供えるの意味から、やしなう」とあり、“羊”と“大”を組み合わせた「美」の字義は「大きくて立派な羊の意味から、うまい、美しい」とあります。古代中国において、天子が土地の神、五穀の神を祀るときには、特別の供物として牛・羊・豚が捧げられました。この三種の供物を大牢(たいろう)といい、転じて最高のご馳走という意味でも使われます。中でも羊は、「祥」の字が示すように、神に供えて吉凶のきざしを占う際に用いられる重要な家畜でした。
 同じように、ユダヤ・キリスト教世界やイスラム世界においても、羊は美味なご馳走であり、神々に供えることのできる神聖な家畜でした。
 『創世記』22章では、アブラハムが神への誠心を示すために、愛児イサクを生贄として捧げようとします。祭壇を築いてその上にイサクを縛り、まさに殺そうとしたそのときに、神が用意した身代わりの生贄が1頭の雄羊でした。
 イスラム法が定める神への最善の供物は、生後1年以上を経た健康な雄羊です。そのため、メッカ巡礼や祈願成就の折りには好んで羊が捧げられ、巡礼月に行われるイスラムの二大祭のひとつ犠牲祭では捧げた羊を3等分し、家族・貧困親族・貧困家庭に配分することが善行とされています。
 肉や乳は美味なる食糧となり、毛は温かい繊維となり、柔らかい皮は古くは紙の代わりとなり、糞は貴重な燃料ともなるこの穏やかな草食動物は、数千年もの昔から世界中で多くの人々を養い、人々の信仰を支えてもきたのです。

「未」vol.1 未は「祥」なり

2014.12.16  干支コラム 

中国に伝わる吉祥図に、3頭の羊が陽光を浴びている図柄があります。春節(中国の旧正月)の祝詞によく用いられたという縁起の良い言葉、「三陽開泰(さんようかいたい)」を描いたものです。
 古く中国では、冬至の日を境として陰の気が次第に去り、陽の気がだんだんに生じると考えられていました。旧暦11月の冬至の日に「一陽」が生じ、旧暦12月に「二陽」が生じ、正月に「三陽」が生じて「開泰する(万物が通じる)」というのです。そこから、冬が過ぎ、春が巡り来て、万物が生気に満ち溢れるという意味のおめでたい言葉として使われ、吉祥図にも描かれました。
 羊の図案が用いられたのは、「陽」と「羊」の字音が同じであるのに加え、後漢の許慎(きょしん)が撰した最古の漢字辞典『説文解字』に「羊は祥なり」とあるように、そもそも羊は祥に通じる縁起の良い存在でもあったからでしょう。
 羊は、角を持ってはいても使わないところが、仁を好む人のようである。捕えても鳴かず、殺しても声を上げないのは、義に殉じる人のようである。子羊が母から乳をもらうときに必ずひざまずくのは、まるで礼を知る人のようである。羊が祥とほぼ同義とされるゆえんはここにある。(要約)
 中国・前漢の書物『春秋繁露(しゅんじゅうばんろ)』の中で、羊はこのように説明されています。

「午」vol.5 天馬のごとくのびやかに

2014.1.31  干支コラム 

 午年生まれの人は、せっかちで怒りっぽいところがありますが、根っから陽気な性格で、頭の回転が速い人が多いのが特徴です。独立心に富み、失敗してもくよくよ思い悩むことなく心機一転できることから、地道に努力すれば予想もしなかったような成功が得られるといわれます。
 明治3年、ロシア革命の指導者レーニン。明治15年、アメリカ合衆国第32代大統領ルーズベルト。わが国では、明治27年に松下幸之助、明治39年に本田宗一郎、大正7年に田中角栄、昭和17年に小泉純一郎など。午年生まれは、各世代に歴史に名を残す政財界の大物が顔を揃えています。
 史実をひもとけば、大化の改新、本能寺の変、赤穂浪士の討ち入り、日露戦争など。午の年には歴史を動かす出来事が頻繁に起きています。そもそも「午」という字は、杵の形を描いた象形文字で物事が「交差する」という意味があります。また午は「さからう」の意味を持ち、午の上の「」は地表を表し、下の横棒は陽気、縦棒は陰気が下から突き上げて地表に出ようとするさまを表します。そこから、相反する二つの勢力の間に衝突が起こり、運命が一変する可能性をはらんだ年と考えられるのです。
 「天馬空行」という故事があります。大空を自由に駆けまわる天馬にたとえて、ものの考え方や行動がのびやかで勢いがあることを指します。時代が大きく動く午年ならばこそ、恐れずひるまず「天馬空を行く」の気概を持って、日に千里を走る駿馬のように、新しいこの一年を力強く駆けめぐりたいものです。
(vol.1~vol.5文/坂上雅子)

「午」vol.4 左馬が福を招く

2014.1.25  干支コラム 

その絵馬の絵柄に、左(向かって右)を向いて左足を出した「左馬」がよく描かれます。一説によれば、左癖の馬は出足が良いといわれ、足が速くてすぐに売れるということから、商売繁盛の御利益があるとされます。
 また、馬は右から乗ると転ぶ習性があるため、必ず左側から乗ることからきているという説もあります。転ばない左馬にあやかって、人生を無事に大過なく過ごしたいという庶民の素朴な祈りが込められているのです。
 天童市の将棋駒で知られるように、馬の字を左右逆さに書いた左馬もあります。「うま」を逆さに読んだ「まう」が祝宴で踊られる「舞い」に通じることから、福を招く御利益があるとされます。