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「酉」vol.5

 酉の字は「日読みのとり」と称され、暦に関係した場合にのみ「とり」と訓みます。もともとは「酒」の古字で、口の細い酒壷を描いた象形文字。時節では十月(旧暦八月)を指しますが、その理由として『説文解字』には「八月、黍(きび)成る。酎酒を為るべし」とあり、穀物が成熟し、酒を造る月で あるからと考えられます。
 一方、『新漢語林』によれば鶏(ケイ)の字は、その鳴き声から「鳥」に音符の「奚(ケイ)」を合わせた形声文字。奚は「つなぐ」の意味があり、家畜としてつながれた鳥を表します。わが国では鳴き声から「かけ」とか「かけろ」と呼ばれ、庭で飼われる
ことから「庭つ鳥」ともいいました。「にわとり」は この「庭つ鳥」の意味です。
 古来より、鶏は時を告げる貴重な存在として、人のごく身近で飼われてきました。大空を飛ぶ代わりに、太陽の象徴として世界を暁に導き、吉凶を予知する役目を担い、またその闘争心から勇気ある鳥として讃えられました。
 世界規模でテロリズムの嵐が吹き荒れ、国内にあっては高齢化と人口減少が国の土台を揺るがしかねない厳しい時代だからこそ、「文・武・勇・仁・信」の鶏の五徳に習い、吉凶を見通すその眼力にあやかって、熟した穀物から新しく香り高い酒を造るように、この一年を光明に満ちた未来へとつながる契 機の年としたいものです。
(vol.1~vol.5文/坂上雅子)

「酉」vol.4

 闘争心の強い鶏の性質を酉年生まれの人は、夢にあふれ、正義感が強く、頭の回転が早くて世渡りも上手、と魅力満点です。その反面、目立ちたがりで虚栄心が強く、短気なところがあるので注意が肝要とされます。
 戦後の歴史を振り返ると、酉年は良きにつけ悪しきにつけ、女性が話題を提供 した年でした。
 1945年(昭和20)は「戦争未亡人」という残酷な言葉が生まれましたが、1957年(昭和32)は一転して有吉佐和子・原田康子・瀬戸内晴美ら才能ある女性新人作家がデビューし、「才女時代」といわれました。小川ローザが白いスカートを翻す「OH!モーレツ!」のテレビCMが大ヒットした1969年(昭和44)、田中角栄の秘書官の元妻・榎本三恵子の「ハチの一刺し」が流行語となった1981年(昭和56)。そして、平成の酉年の1993年(平成5)は皇太子様・雅子様のご成婚が話題をさらい、2005年(平成17)は当時の小池百合子環境大臣の主導により夏場の「クールビズ」 がスタートしました。

「酉」vol.3

 闘争心の強い鶏の性質を利用した闘鶏はギリシャに始まるといわれ、古代ギリシャの哲学者プラトンの著書『法律』にも、闘鶏に熱中する人々の姿が描かれています。
 日本では、『日本書紀』の雄略天皇紀に雄鶏を闘わせた記事が見えます。平安 時代に入ると鶏合(とりあわせ)と呼ばれて宮廷貴族の間で大流行し、鎌倉・室 町時代には朝廷・幕府における上巳の節句の恒例行事として楽しまれるようになりました。また、『年中行事絵巻』や『鳥獣戯画』には庶民が闘鶏に興じる姿も見られることから、貴族・武士・庶民を問わず広く親しまれていたことがわかります。
 このような娯楽的な側面の一方で、闘鶏は吉凶を予知する占いにも用いられま
した。『平家物語』では、源氏と平氏の双方から援軍を要請された紀伊国の熊野別当・湛増(たんぞう)が、いずれに就くかを決めるために闘鶏を行います。赤の鶏を平氏、白の鶏を源氏に見立てて闘わせたところ、赤が逃げ出したことから、湛増は二百隻余の熊野水軍を率いて壇ノ浦に出陣し、源氏に加勢したのでした。

「酉」vol.2

 野鳥を飼いならして品種改良したものを家禽といいますが、そのなかで最も広く飼育されているのが鶏です。
 鶏の祖先は、東南アジアから南アジア一帯に分布しているセキショクヤケイ等の野鶏と考えられていますが、その起源や家禽化の時期については諸説あり、定かではありません。
 日本には稲作と前後して、今日の地鶏の祖先が渡来したと考えられています。その後、平安時代に遣唐使船によって今日の小国鶏の祖先が中国からもたらさ れ、江戸時代初頭には朱印船により、タイ・ベトナム・中国から大シャモ・チャボ・ウコッケイの祖先がもたらされました。江戸時代にこれらが交配され、品種改良されたのが「日本鶏(にほんけい)」 です。
 諸外国の品種が主に卵・肉を採取するために改良されたのに対して、日本鶏は世界的に極めて珍しいことに、主に観賞用として品種改良されました。日本三大長鳴鶏といわれ、時を告げる声を観賞する高知原産のトウテンコウ、青森原産のコエヨシドリ、新潟原産のトウマル。もとは闘鶏に用いられたシャモやサツマドリ、カワチヤッコ。雄の尾羽が十二メートルにも達する土佐のオナガドリをはじめ、姿を観賞するために作られたミノヒキ、クロカシワ、ヒナイドリなど。日本各地で作られた十五品種の鶏が、国の天然記念物に指定されています。

「酉」vol.1

 人が理想とする「文・武・勇・仁・信」の五つの徳。中国では、鶏はこの五徳を備える鳥といわれます。
 出典は前漢の韓嬰(かんえい)が著した『韓詩外伝』。すなわち、頭に文官の冠をいただき(文)、足に蹴爪を持ち(武)、ひとたび戦えば敵前から一歩も引かず(勇)、餌を見つければ「コッコッ」と鳴いて仲間に知らせ(仁)、時間を正確に守って夜明けを告げる(信)。そんな鶏の姿や性質を五徳と讃えたのです。
 日本では『古事記』や『日本書紀』の天岩戸伝説に、「常世の長鳴鳥」という名で鶏が登場します。天照大神が天の岩戸に隠れ、世界が闇に閉ざされたとき、神々が常世の長鵈鳥を集めて鳴かせ、アメノウズメノミコトに舞い踊らせて太陽神の天照大神を誘い出すことに成功します。
 鶏が太陽を呼び戻す神話は中国にも見られ、古代エジプトや古代ペルシャ、さらに中世ヨーロッパにおいても、鶏は太陽の象徴とされました。十六世紀のイギリスの劇作家シェイクスピアは、『ハムレット』の冒頭部分に次のように書いています。
 「聞くところによれば、夜明けを告げる喇叭(らっぱ)手の雄鶏は、その張り上げた甲高い鳴き声で日の神を目覚めさせ、そして鶏鳴の警告を聞くや、海のなか、火のなか、地下、空中いずれであれ、無明をさまよう霊たちは、それぞれに定められたおのが領分へと急ぎ戻るという」(岩波書店野島秀勝訳)
 洋の東西を問わず、その鳴き声で夜明けを告げる鶏は、悪霊が闊歩する暗黒の世界を太陽の光のもとへと導く霊鳥と信じられていたのでした。

「申」vol.5

 『新漢語林』によれば、「申」の字は稲光の走るさまをかたどった象形文字で、「伸びる」「神」の意味を表すとあります。
 このほかにも、「申」は背骨と肋骨をかたどったもので、まっすぐに伸びてしっかり体を支えるという意昧を持つとする説もあります。
 数多くの民話や伝説に登場する猿のなかにあって、16世紀中国・明代の『西遊記』から現代日本の『ドラゴンボール』まで、時代を超えて縦横無尽の活躍を続ける孫悟空は、もっとも人気のあるスーパースターといえるでしょう。
 稲光のように、キン斗雲に乗って10万8千里をひとっ跳び。機敏で活気に満ち溢れた孫悟空にあやかり、背筋をまっすぐに伸ばし、何事にも前進あるのみの有意義な一年としたいものです。
(vol.1~vol.5文/坂上雅子)

「申」vol.4

 申年の人は、利発な素質を持ち、発想が豊かで進取の精神に富むとされます。そのため、若くして世に認められる人が多いとか。
 25歳で『若菜集』を刊行し、詩人として名声を博した島崎藤村。『たけくらべ』『にごりえ』などの名作を残し、24歳で夭折した樋口一葉。現在もその作品が多くの人々に読み継がれている太宰治や宮沢賢治、一橋大学在学中に『太陽の季節』で芥川賞を受賞した石原慎太郎など。申年生まれには著名な作家が多いのが特徴です。
 東京・兜町の格言にいわく、「辰・巳天井、午尻下がり、未辛抱」。そして「申・酉騒ぐ」と続きます。その格言通りに、戦後の歴史を見ると、申年は経済の浮き沈みが大きい年といえるでしょう。1956年(昭和31)は神武景気が本格化、経済白書に「もはや戦後ではない」と記されました。1968年(昭和43)はイザナギ景気に沸き、テレビCMの「大きいことはいいことだ」という言葉が流行しました。しかし、1992年(平成4)は一転して平成バブル不況。「複合不況」や「資産デフレ」という言葉が流行語となりました。
 猿は、「悪いものが去る」に通じることから、古来よりたいへん縁起の良い動物とされています。その猿の力にあやかり、2016年(平成28)は長引くデフレ不況が去り、善男善女が明るい希望を持って元気にくらせる年となるよう祈りたいものです。

「申」vol.3

 3匹の猿が両手でそれぞれ目、耳、口を隠し、「見ざる、聞かざる、言わざる」の意を表すとされる三猿。
 その起源は、『論語』のなかの「礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ」という教えに基づくという説。また、「耳は人の非を聞かず、目は人の非を見ず、口は人の過を言わず」という天台宗の教えに基づくものという説もあります。
 いずれにしても中国から日本に伝わり、日本語の語呂合わせの「猿」がくっついたのが、「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿。ならば、発祥の地は日本かと思いきや、驚くことに三猿のモチーフは、世界中のいたる所で見られるというのです。
 飯田道夫氏の『世界の三猿-その源流をたずねて』(人文書院)によると、インドやネパール、インカの遺跡、イスタンブールからアフリカまで足を延ばした探求の結果、三猿崇拝・三猿習俗のルーツは古代エジプトにあり、と結論付けています。さらに驚くべきことに、国立民族学博物館のコレクションを紹介した中牧弘允教授の『世界の三猿―見ざる、聞かざる、言わざる』(東方出版)では、中国・韓国・フィリピン・シンガポール・インドネシア・タイ・インド・ネパール・スリランカといったアジア諸国のみならず、アメリカやカナダ、ヨーロッパの国々、北欧、中・南米やアフリカ、オーストラリアなど、三猿は世界の隅々まで広がっています。
 3匹の猿に託した「見ざる、聞かざる、言わざる」は、もしかしたら民族や文化を超えて共有できる人類の叡智といえるのかもしれません。

「申」vol.2

 現代では動物園や特定の生息地以外で猿を目にすることはめったにありませんが、わが国では太古の昔からきわめて身近な生き物でした。
 比叡山麓に鎮座する山王権現・日吉大社の神使いが猿であることから、古来より猿は山の神とされてきました。また「猿は山の父、馬は山の子」ともいわれ、猿は馬の守り神であると信じられていました。有名な日光東照宮の三猿が、ご神馬をつなぐ厩(うまや)に彫刻されているのもそのためです。
 鎌倉時代の説話集『古今著聞集』には、直垂・小袴・島帽子をつけた猿が太鼓に合わせて舞を演じ、その後に厩の前につないだという記述があります。猿まわしという芸能は、どうやら古くは大切な財産である馬の安全息災を祈る厩の祈祷に用いられていたようです。
 江戸時代になると、各地に猿飼が住む猿屋町や猿屋垣内が置かれ、そこを拠点に組織化された猿まわしの集団が諸国を巡っていました。その頃には、新春の祝福芸としても盛んになります。猿飼が祝言を述べ、猿がめでたい舞を披露する姿は、宮中や武家屋敷はもとより、庶民の間でも正月の風物詩となり、俳旬の季語ともなっています。
 明治以降、古典的な猿まわしはすたれ、一時は“幻の芸能”ともいわれましたが、山口県周防地方でその伝統が保存されてきました。1991年(平成3)には、周防猿まわしが動物芸として初の芸術祭賞を受賞。人とニホンザルが一体となって織りなす猿まわしが優れた芸能であることが、広く認められました。

「申」vol.2

 猿の語源は、一説には、他の動物よりはるかに知能が勝ることから「まさる」の「ま」が省略されて「さる」になったとされます。また一説には、人の物真似をしてふざけることから「戯(ざ)る」に由来するとされます。いずれも、ヒトと共に霊長類に分類される猿の特性をよく表したものといえるでしょう。
 霊長類の仲間である猿の進化は、ヒトの起源とも密接な関わりを持っています。ヒトや類人猿の遺伝的な研究では、テナガザル→オランウータン→ゴリラの順に分岐し、今から約700万年前、最後にチンパンジーとヒトが分かれたと考えられているそうです。
 日本に生息する猿は、動物学上は霊長目オナガザル科の一種で、その名もニホンザルといいます。南は鹿児島県屋久島から北限は青森県下北半島に至る間に分布し、冬ともなると雪の舞うなか、心地よさげに目を細めて温泉につかる姿がテレビなどでよく紹介されます。
 しかし、世界的に見ると、これはきわめて珍しい光景です。他の猿たちは、中南米、アフリカ、南アジアから東アジアにかけての熱帯、亜熱帯地域に分布するのに対し、ニホンザルはヒト以外で雪が降る地域に棲む最北限の霊長類として、海外ではスノーモンキーと呼ばれ注目されています。

「未」vol.5

平安時代の末から鎌倉時代初頭にかけて、貴族社会から武家社会へと大きく変貌を遂げた時代を生きた僧侶・慈円は、次のような歌を詠んでいます。

 極楽へまだわが心行きつかず
 羊のあゆみしばしとどまれ

羊が屠所(としよ)へとひかれ黙々と歩むように、人もまた死に向かって日々を生きています。たとえわが魂がいまだ極楽へ往生するまでに至っていなくても、刻々と死に近づいていく羊の歩みは、決してとどまることはありません。
「未」の文字は、木の枝がまだ伸びきらない状態をかたどった象形文字で、「いまだ…していない」の意を表します。いまだ知らぬこと、まだ来ていない時代、まだ熟していないこと、まだ完成していないもの—「未知」や「未来」、「未熟」や「未完」の物事を、この先良くするのも悪くするのも、この一年の、今この時が勝負です。
いまだ伸びきっていない木をやがて大きく枝を広げる大樹とするために、羊のごとく穏やかに、されど内には熱い闘志をたぎらせつつ、一歩また一歩と着実に歩み続けたいものです。
(vol.1~vol.5文/坂上雅子)

「未」vol.4

十二支の本場の中国では、明るく活動的な午年と打って変わって、未年は静かで平穏な一年になると考えられているようです。
また、未年は十二支の中で最も思いやりのある干支と伝えられます。未年の人は穏健で同情心に富み、感性が豊かで芸術感覚に優れているとされます。しかし、性質がおとなしい分、内気でセンチメンタルなところがあり、物事がうまくいかないと悲観的になりがちで、落ち込みやすいのが欠点とされます。
ところが、最近の未年生まれを見ると、意外なことに、闘争心が要求されるプロスポーツ界で活躍するスター選手が多いのが特徴です。プロボクサーのファイティング原田・輪島功一・具志堅用高・亀田和毅、格闘技の魔裟斗(まさと)、大相撲の千代の富士、プロ野球の江川卓・清原和博・阿部慎之助、サッカーの三浦友良・中山雅史・小野伸二など。
自らの弱気を克服し、闘志を持って事にあたれば、人々に愛され吉運が開けるようです。

「未」vol.3

古来より日本には、さまざまなものが海を越えて伝わりましたが、羊については骨の出土などもなく、ほとんど伝わらなかったと見られています。
『日本書紀』には、推古天皇7年(599年)に百済国からラクダなどとともに羊が献上されたと記されています。さらに、嵯峨天皇の治世の弘仁11年(935年)には新羅から、朱雀天皇の治世の承平5年(935年)には中国からもたらされたとの記録も残りますが、どうやら珍獣としての扱いで、その後もずっと食用や羊毛用としての羊の飼育が普及することはありませんでした。
日本でもっとも多くの羊が飼育されることになるのは、太平洋戦争後の1950年代。食糧不足と衣料不足が農家の飼育熱をあおり、一時は100万頭を超えたこともあったようです。しかし、その多くは、農家の軒先の小屋で少数の羊が飼われるという副業的なものでした。
1973年、少年の頃から憧れ続けた悠久の地・モンゴル高原を訪れた作家の司馬遼太郎は、遊牧民族と農耕民族の違いを次のように書き記しています。
遊牧と農耕は同じく大地に依存しつつも、遊牧者は草の生えっぱなしの大地を生存の絶対条件とし、農耕者は逆に草をきらい、その草地を鋤でひっくりかえして田畑にすることを絶対条件としている。(モンゴル紀行より)
もともと高温多湿で樹木が多く、草地が少ない日本の気候風土は、広大な草原で何百頭もの羊の大群を放牧飼育するには適しません。ましてや、元来農耕民族である日本人には、羊の群れを追いながら大草原を移動するような遊牧の民の暮らしは想像もできなかったことでしょう。やがて経済が回復し、国外から安価な羊毛が輸入されるようになると、急速にその数は減少し、現在では北海道を中心にわずかな数が飼育されるにとどまっています。

「未」vol.2

羊が家畜化されたのは古く、一説では中石器時代の中央アジアにはじまるといわれます。以来、サバンナ地帯やステップ草原、地中海地域やヨーロッパ、砂漠の周縁部など、世界各地で放牧飼育されてきました。
『新漢語林』によれば、“羊”と“食”を組み合わせた「養」の字義は「羊を食器に盛る・供えるの意味から、やしなう」とあり、“羊”と“大”を組み合わせた「美」の字義は「大きくて立派な羊の意味から、うまい、美しい」とあります。古代中国において、天子が土地の神、五穀の神を祀るときには、特別の供物として牛・羊・豚が捧げられました。この三種の供物を大牢(たいろう)といい、転じて最高のご馳走という意味でも使われます。中でも羊は、「祥」の字が示すように、神に供えて吉凶のきざしを占う際に用いられる重要な家畜でした。
同じように、ユダヤ・キリスト教世界やイスラム世界においても、羊は美味なご馳走であり、神々に供えることのできる神聖な家畜でした。
『創世記』22章では、アブラハムが神への誠心を示すために、愛児イサクを生贄として捧げようとします。祭壇を築いてその上にイサクを縛り、まさに殺そうとしたそのときに、神が用意した身代わりの生贄が1頭の雄羊でした。
イスラム法が定める神への最善の供物は、生後1年以上を経た健康な雄羊です。そのため、メッカ巡礼や祈願成就の折りには好んで羊が捧げられ、巡礼月に行われるイスラムの二大祭のひとつ犠牲祭では捧げた羊を3等分し、家族・貧困親族・貧困家庭に配分することが善行とされています。
肉や乳は美味なる食糧となり、毛は温かい繊維となり、柔らかい皮は古くは紙の代わりとなり、糞は貴重な燃料ともなるこの穏やかな草食動物は、数千年もの昔から世界中で多くの人々を養い、人々の信仰を支えてもきたのです。

「未」vol.1

中国に伝わる吉祥図に、3頭の羊が陽光を浴びている図柄があります。春節(中国の旧正月)の祝詞によく用いられたという縁起の良い言葉、「三陽開泰(さんようかいたい)」を描いたものです。
古く中国では、冬至の日を境として陰の気が次第に去り、陽の気がだんだんに生じると考えられていました。旧暦11月の冬至の日に「一陽」が生じ、旧暦12月に「二陽」が生じ、正月に「三陽」が生じて「開泰する(万物が通じる)」というのです。そこから、冬が過ぎ、春が巡り来て、万物が生気に満ち溢れるという意味のおめでたい言葉として使われ、吉祥図にも描かれました。
羊の図案が用いられたのは、「陽」と「羊」の字音が同じであるのに加え、後漢の許慎(きょしん)が撰した最古の漢字辞典『説文解字』に「羊は祥なり」とあるように、そもそも羊は祥に通じる縁起の良い存在でもあったからでしょう。
羊は、角を持ってはいても使わないところが、仁を好む人のようである。捕えても鳴かず、殺しても声を上げないのは、義に殉じる人のようである。子羊が母から乳をもらうときに必ずひざまずくのは、まるで礼を知る人のようである。羊が祥とほぼ同義とされるゆえんはここにある。(要約)
中国・前漢の書物『春秋繁露(しゅんじゅうばんろ)』の中で、羊はこのように説明されています。

「午」vol.5

午年生まれの人は、せっかちで怒りっぽいところがありますが、根っから陽気な性格で、頭の回転が速い人が多いのが特徴です。独立心に富み、失敗してもくよくよ思い悩むことなく心機一転できることから、地道に努力すれば予想もしなかったような成功が得られるといわれます。
明治3年、ロシア革命の指導者レーニン。明治15年、アメリカ合衆国第32代大統領ルーズベルト。わが国では、明治27年に松下幸之助、明治39年に本田宗一郎、大正7年に田中角栄、昭和17年に小泉純一郎など。午年生まれは、各世代に歴史に名を残す政財界の大物が顔を揃えています。
史実をひもとけば、大化の改新、本能寺の変、赤穂浪士の討ち入り、日露戦争など。午の年には歴史を動かす出来事が頻繁に起きています。そもそも「午」という字は、杵の形を描いた象形文字で物事が「交差する」という意味があります。また午は「さからう」の意味を持ち、午の上の「」は地表を表し、下の横棒は陽気、縦棒は陰気が下から突き上げて地表に出ようとするさまを表します。そこから、相反する二つの勢力の間に衝突が起こり、運命が一変する可能性をはらんだ年と考えられるのです。
「天馬空行」という故事があります。大空を自由に駆けまわる天馬にたとえて、ものの考え方や行動がのびやかで勢いがあることを指します。時代が大きく動く午年ならばこそ、恐れずひるまず「天馬空を行く」の気概を持って、日に千里を走る駿馬のように、新しいこの一年を力強く駆けめぐりたいものです。
(vol.1~vol.5文/坂上雅子)

「午」vol.4

その絵馬の絵柄に、左(向かって右)を向いて左足を出した「左馬」がよく描かれます。一説によれば、左癖の馬は出足が良いといわれ、足が速くてすぐに売れるということから、商売繁盛の御利益があるとされます。
また、馬は右から乗ると転ぶ習性があるため、必ず左側から乗ることからきているという説もあります。転ばない左馬にあやかって、人生を無事に大過なく過ごしたいという庶民の素朴な祈りが込められているのです。
天童市の将棋駒で知られるように、馬の字を左右逆さに書いた左馬もあります。「うま」を逆さに読んだ「まう」が祝宴で踊られる「舞い」に通じることから、福を招く御利益があるとされます。

「午」vol.3

洋の東西を問わず、馬は神霊の乗りものであると考えられていました。ギリシャやインドにあっては、太陽神が乗る車を引く聖獣とされ、中国ではインドからの高僧が白馬に経典を乗せて当地に仏教を伝えたといわれます。また、黄河から八卦図を背に現れ出たという、竜馬伝説も残ります。
わが国では、神事や祈願に神の降臨を求めて生きた馬を奉納するならわしがあり、平安時代の書物『延喜式』によれば、雨乞いの祈願には黒毛の馬を、止雨の祈願には白馬を奉ったとあります。
とはいえ、生きた馬を奉納するというのは、そうそうできることではありません。そこで、神馬を描いた板絵を納めたのが「絵馬」の起源といわれます。時代とともに絵馬は多様化し、桃山時代には著名な絵師が筆をふるった豪華な大型絵馬が人気となり、それをかけるための絵馬堂がつくられました。その一方で、名もない市井の絵馬師や奉納者自身が描いた小絵馬は、庶民の間で脈々と受け継がれ、現代も祈願や報謝のために奉納する善男善女が絶えることがありません。

「午」vol.2

縄文時代の遺跡から馬の歯が出土していることからもわかるように、馬はかなり早い時期にわが国に渡来し、古墳時代の後期には貴人の間で騎乗の風習が広まっていたと考えられます。
672年、大友皇子と大海人(おおあま)皇子の皇位継承争いに端を発した壬申の乱では、両軍による騎馬戦が華々しく展開され、馬による行軍のスピードが戦局を左右します。勝利を得た大海人皇子は翌673年、飛鳥京にて即位し天武天皇となりますが、この戦いで大友皇子側についた大和朝廷の大豪族たちが打撃を受け、天皇の権力が強化されたことが、日本を中央集権国家へと大きく転換させる契機となりました。
「将を射んと欲すればまず馬を射よ」の言葉が示すように、古代より馬は武将と一体となって戦陣を疾駆し、時としてその勝敗さえ分かつ働きをしてきました。
源義経によるひよどり越の奇襲、武将を乗せた馬が筏のように宇治川の急流を押し渡る橘合戦など。源平の戦いを描いた『平家物語』には、馬が活躍する場面が数多く見られます。それもそのはずで、朝廷が軍馬の育成にあたらせた牧地を治めていた者たちが、やがて武士となり勢力を広げ、その頂点に立ったのが源氏でした。源氏軍は得意とする騎馬の機動力を最大限に発揮し、戦を制したのです。

「午」vol.1

野球のイチロー選手を見出した仰木監督のように、埋もれた才能を見抜く眼力のある人物のことを「名伯楽」と呼びます。
この伯楽とは、古代中国の有名な名馬の鑑定人のことです。本名を孫陽、号を伯楽といいました。
古書『戦国策』燕策には、こんな話が見られます。
ある人が駿馬を市に出したがなかなか売れず、伯楽に頼んで一度顧みてもらうと、とたんに馬の値が十倍にはね上がったという。
この故事の駿馬と伯楽の関係を、人間界に見たのが「伯楽一顧」です。世に埋もれていた優れた人材が、名君や賢相によって才能を認められ重用されることをいいます。名君・賢相のたとえとして使われるほどですから、伯楽の権威は広く認められていたのでしょう。
中国で現代も使われている言葉に、「馬到成功」があります。軍馬が到着するなり戦を制するという意味から、速やかに勝利を収めることをあらわします。古代から近代に至るまで、馬は人々の生活や国の発展に欠かせない輸送と交通を担いながら、同時に人と生死を共にする特別な存在でもありました。
干支の十二支獣のうち、馬ほど人間の歴史や国家の興亡に深く関わった動物はありません。名馬を見抜く力を持った伯楽が、名君・賢相に並び称され、その名を今に残しているのも、人にとっての馬の存在の大きさを物語っているのかもしれません。

彩七宝シリーズ

七宝の柄をモダンにリメイクし、配色にもこだわって
井筒授与品店の織り工房である「西道織物」で織り上げ、
いろいろな小物をご用意いたしました。
鞄の中を整理するための小物から机上の文箱まで、お好みに応じてお選びいただけます。

「巳」vol.5

昔から中国では、美人と強い男子は巳年生まれが多いと言われます。男性では、マハトマ・ガンジー、毛沢東、ジョン・F・ケネディという世界史に残る政治指導者が巳年生まれです。
生まれつき聡明で情熱的、仕事にも恋愛にも積極的に取り組むのが巳年生まれの人の特徴です。しかし、猜疑心が強く、執念深いところがあるため、人間関係で円満を欠くことが少なくありません。魅力的な反面、つき合いにくい自分の性格を自戒して、精進することが肝要です。
遠く巳年の歴史を遡れば、中大兄皇子(後の天智天皇)らが蘇我氏を滅ぼし、新政権を樹立した大化の改新が645年。
源義経が壇ノ浦で平家を破り、平氏一門が滅亡したのが1185年の巳年でした。1905年には世界を驚かせた日本海海戦の大勝利で日露戦争が終結し、1941年には真珠湾攻撃で太平洋戦争の火蓋が切って落とされました。1989年には昭和天皇が崩御され、時代が昭和から平成へ。そして、前の巳年の2001年に21世紀がはじまりました。
中国の字典『正字通』には、「巳(み)は終わりの已(い)なり。陽気既に極まり、回復するの形なり」とあります。巳の時は、1日の半ばになろうとする時刻であるところから、物事の盛りの頃を意味します。
良きにつけ悪しきにつけ、物事や時代が一つのピークを迎えて終わり告げ、新たなスタートを切るのが巳の年と言えるでしょう。それだけに、終わってみるまで何が起きるかわからない、気の抜けない年でもあります。
古い殻を破って脱皮し、計り知れない生命力で再生を続ける蛇のごとく、しっかりした覚悟と果敢な勇気をもって、新しいステージへ踏み出す一年としたいものです。

(vol.1~vol.5文/坂上雅子)

「巳」vol.4

2匹が縄のように絡み合った交尾が数時間も続くといわれる蛇は、古来より旺盛な生殖力で知られます。そのせいかどうか、中国にも日本にも、蛇と人間の恋愛や婚姻にまつわる説話が数多く見られます。
中国の民間伝説『白蛇伝』は、白蛇の化身の娘が人間の男性と恋に落ちるという恋愛故事です。やがて夫婦となり、幸せに暮らしていましたが、仏僧に蛇の正体を見抜かれ、退治されます。この説話を題材に、1958(昭和33)年に日本初の総天然色アニメ映画『白蛇伝』が制作されました。
日本では、蛇が男性になって人間の娘と契りを交わす「蛇婿入り伝説」が多く伝えられますが、その反対に人間の女性が蛇になるのが、紀州に伝わる『道成寺伝説』です。
僧の安珍に恋をした清姫は、叶わぬ恋の炎を燃やし、大蛇となって安珍のあとを追います。そしてついには、道成寺の釣り鐘の中に隠れた安珍を鐘ごと燃やし尽くします。美しい娘が凄まじいまでの恋心ゆえに蛇と化すこの伝説には、人々の心を捉えてやまない魅力があるようです。浄瑠璃や能、歌舞伎にも取り上げられ、今も広く語り継がれています。

「巳」vol.3

「鬼が棲むか、蛇が棲むか」とまで恐れられる蛇。しかし、ネズミなどの害獣を獲物とし、長い冬眠の間、何も食べずに生き続け、脱皮を繰り返して成長する蛇は、豊穣と永遠の生命力の象徴として世界各地で信仰される存在でもありました。
わが国には家に棲みついた蛇を守護霊として敬う風習がありましたが、幸福を呼ぶ家つき蛇の民間信仰は、ドイツやスイスでも見られるといいます。 
西洋ではまた、蛇は医学の象徴です。ギリシャ神話に登場する名医・アスクレピオスが手に持つ杖には、再生と不死のシンボルの蛇が巻きついています。この「アスクレピオスの杖」と呼ばれるモチーフは、世界保健機関のマークとなっているほか、各国の救急車や医科大学のマークとして今も使われています。
 豊穣をもたらす蛇には、金運上昇の御利益もあるようです。インドの民間信仰では、財宝を守る白蛇が人の夢に現れてその所在を教えるといいます。わが国では弁財天の御使いとして尊ばれ、蛇が脱皮した後の抜け殻を財布に入れるとお金が貯まるなどの言い伝えがあります。

「巳」vol.2

蛇は極地を除く世界各地に広く分布し、現生種は約2,400種といわれます。地上に棲むもの、地中に棲むもの、水中に棲むもの、樹上に棲むものなど多様で、致命的な毒を持つ危険種は約300種。日本ではマムシ、ハブ、ヤマカガシが毒蛇として知られています。
足もないのに電光石火の逃げ足で、獲物に素早く毒牙を打ち込み、あるいは伸縮自在にからみついて巻き締め仕留める蛇は、古代の人々にとって脅威の的でした。
中国・唐の『晋書』には、蛇の影に怯えて病気になる男の話が紹介されています。
親戚の宴に招かれた男が酒を口にしようとすると、なんと杯の中に蛇が見えます。男は震え上がり、それ以来、病気になってしまいますが、後日、杯の蛇の正体は壁にかかった弓が映ったものだったと知ると、たちまち病が回復したというものです。
この故事から、疑い出せば、何でもないことでもストレスの種になることを「杯中蛇影(はいちゅうだえい)」と言うようになりました。

「巳」vol.1

辰年の龍の次が、巳年の蛇。
「海に千年、山に千年棲みついた蛇は龍になる」という言い伝えがあります。それを人間の経験にあてはめ、世の中の裏も表も知り尽くした抜け目のない人を「海千山千」と呼びます。
干支の本場の中国では、龍についての諸説の中に「龍の原型は蛇」とする説があり、現代も俗に蛇を「小龍」と呼びます。かつてNHK中国語講座で活躍されていた鄭高詠(ていこうえい)氏によれば、巳年の中国人に干支を尋ねると、3通りの答えが返って来るそうです。
「私の干支は蛇です」
「私の干支は長虫(蛇の異称)です」
「私の干支は小龍です」
蛇と言わずに小龍と言いたがるのは、国民的人気の龍に対し、蛇には残酷で狡猾なイメージか付きまとうからだとか。同じように全身を鱗で覆われた十二支獣でありながら、想像上の動物の龍は天空を駆け、権力の象徴とされるのに対し、古くから人の身近にいた蛇は、崇敬と嫌悪が相半ばする複雑な存在でした。
そして、この二面性こそが、他の動物には見られない陰影に満ちた蛇の魅力とも言えるでしょう。

お多福手拭い

井筒授与品店では今年新しくお多福を描いた縁起のよい手拭いを制作いたしました。
古代においては太った福々しい体躯の女性は災厄の魔よけになると信じられ、ある種の「美人」を意味したとされています。
また、福が多いという説と頬が丸くふくらんだ様から魚の河豚が元という説もあります。
そんな縁起のよいお多福を亮然氏が温かみのあるタッチで描き、心に響くことばとともに手拭いに仕上げました。